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3月11日、あの震災から7年がたちました。
被災障害当事者でもある松﨑丈先生(宮城教育大学准教授)のFBでの投稿にとても学ばせていただきました。
当センターも今後とも出来ることを積み上げていきたいと思っています。松﨑先生から許可をいただきましたので、FBから転載してご紹介します。
東日本大震災7年目を迎えて東日本大震災が発生してから被災障害当事者としてやるべきことは何かを考えながらできることを実践してきました。
聴覚障害当事者支援活動体制の構築、ソフトバンクをはじめとする様々な企業・機関の支援でICTを活用した取組、防災教育教材の開発、国際連合会議での提言、熊本震災時の聴覚障害当事者支援マネジメントの後方支援、各種防災セミナーでの講演や防災教育の実施、聴覚障害当事者組織を対象にした災害時対応マニュアルの開発支援など。
それでも一連の災害・防災のシンポジウムやセミナー等の内容をみてみると、「聴覚障害=情報アクセスの問題」とみなされることが多いです。しかもその情報とは「音声日本語/書記日本語」を指す傾向があります。
おそらく「聴覚障害当事者」のことを、日本語ができ、その音声情報が聴き取りにくく、そのために文字情報が必要な人、というふうにみているのでしょう。
日本手話を母語とするろう者、日本手話や日本語の読み書きを充分に身につけてはいない聴覚障害のある子どもや成人、個々のわかりかたに応じたかたちの情報(絵、身振り、ピクトグラム、独自の手話)が必要なろう重複障害や盲ろうの子どもや成人。そしてコーダ、きょうだい、デフファミリーなど様々な家族構成で生きる人。そしてLGBTのろう者・難聴者、聴覚障害があり日本語・日本手話以外の言語を用いる外国人(子どもや成人)のように多様なマイノリティを生きている当事者。
マジョリティ社会はそうした人々の存在-“多様性”が見えていないのです。
そして、「聴覚障害=人とのつながりの問題」とみなされることはあまりありません。
マジョリティからの抑圧や支援不足で「聴者は怖い」と捉えてそこから回復できずにいたり、自分と異なる言語・手段を用いる人々との係わり合いの仕方がわからず敬遠したり。情報面だけでなく、社会的・心理的問題も抱えており、緊急事態になっても身近にいる「聴者」に状況を尋ねることもできないなどの事実があります。
残念ながらマジョリティ社会ではこうした“多層性”の問題があまり認知されていません。
そして当事者や当事者コミュニティのなかでもそうした問題はなるべく触れないでおこうという「力」が働いています。平時における人とのつながりの問題は、災害時にいかに自助・共助できるかということに深く関わっているのです。
「災害」について考える時、自分のことも含めてどのような人がいて、どのように生きているのだろうか、を考えることが重要だと思います。
このことを発信したり話し合ったりして「共有」し、「共生」するためのアイデアや工夫を一緒に考える。個人、家族、学校、企業、当事者コミュニティ、自治体など様々なレベルでできることから実践していく。
「人」を表面的に括ってみることをやめること。“多様性”と“多層性”を前提に個々のことを理解することが「共生」の出発点になること。これを私たちが実践することで、私たちが暮らしているコミュニティや社会に「共生」に向けて共有できる思想・文化を生み出すことにつながると考えています。
これからも、このことを念頭におきながら「できること」を1つひとつしっかりと実践していきます。
(Special thanks 松﨑丈先生)
障害者差別解消法や手話言語条例が目指しているのは「共生社会」です。
そのためにはどのような意識付けが必要なのか?
とても難しい課題ですが、松﨑丈先生(宮城教育大学准教授でろう者)の学生時代の体験談(3/21の投稿~原文はnoteより)に学ばせていただきましたので、転載してご紹介します。
聞こえない者の「声」に対する聞こえる子どもたちの反応から始まった「対話」の話です。
私の声はヘンだ、という話。
私が子どもの頃、初対面の人が聞いて明確にわかるほど明瞭に発音することが充分にできていなかったので、周囲からそのようなことをよく言われました。
当時のろう教育では、自然に音声言語を獲得できない聞こえない子どもに対して発音できるようになるための指導法を考案し、その指導法の有効性を確かめることに没頭していました。しかし現時点で、聞こえない子ども全員が初対面の人が聞いて明確にわかるほど明瞭に発音できるようになったという研究成果はゼロであり、実際にどれほど発音できるようになったのかについても個人差があります。
当時の私にとっては、なぜ発音がうまくできないのか?と疑問に思いましたが、むしろ周囲から「声がヘンだ」と逸脱のまなざしを向けられていることに対してどのように対処すればよいのか?ということが最大の関心事でした。なぜなら前述の指導法は、そうした逸脱のまなざしへの対処法を明確に提供していなかったからです。とにかく発音がうまくなるしかない、そんな印象を子どもなりに抱いていました。そのまなざしに対抗できることばが見つからず、その通りだと認めるしかありませんでした。
それから時間は過ぎ、大学院に進学した時のこと。
複数の小学校から総合学習の時間や道徳の授業などで自身の体験談を話したり手話単語や指文字を教えてほしいと依頼を受けるようになりました。大学に入学してから日本手話を身につけ、聴覚障害教育についても学び、「人間同士がわかりあうこと」とは何かについて思索を深め始めた頃です。
実際に小学校で体験談を話したり手話単語を教えたりした後、子どもたちと質疑応答。すると、やはり次のような感想や質問がきます。
「先生の声はヘンですね」「なぜ声がヘンなんですか?」
なぜヘンなのかについて、大学で学んだ知識を使って聞こえないこどもが発音を身につけることの難しさやそれによって起きる様々な問題を科学的に説明することはできます。
一方で、そのように「科学的知識」を提供するだけでは、聞こえる子どもの側にそうした問題はなく、聞こえない子どもの側にだけ起こるものだ、という「逸脱のまなざし」を解消できないとも考えていました。新しい「まなざし」をどのように作ればよいのか考えねばなりませんでした。
そこで、あえてこのように話してみました。
「まず、私の声がヘンということについてちょっと考えてみたいけど、いいかな。確かに私の発音はヘンなところはあるけど、皆さんの手話もヘンだよ。何を言っているのかわからないところもあるよ。もちろん今日覚えたばかりというのもあるけれど。」と。
子どもたちは不意をつかれたようでしばし沈黙。私は続けて「でも、ここでよく考えてみてほしい。お互いにヘンなところを見つけてヘンだとそれだけを伝えることをどう思うかな?それはお互いわかりあえることとどのようにつながるのかな?」とまず問題提起してみました。
そして「ヘンだと思うのは、おそらくどうしてだろうと疑問に持った、つまり、私に関心を持ってくれたからそう言ってくれたんだろうなと思う。それは嬉しいよ。ただ、ヘンだとそれだけ言っただけでは、だれかと比べてダメだと言われているような気持ちになるよ。何のためにヘンだと言ったのか、もう少し詳しく話してくれると、おそらく思い込んだり誤解したりすることは少なくなると思う。もしお互いにわかりあいたいと思ってそう言ってくれたのなら、そのことをはっきり言ってくれるとありがたいな。あとは、このようなことを言う前に相手を非難したり悲しませるような言い方になってないか一旦考えてみられるようになってくれたらいいかなとは思います。」と伝えました。
このように自分のもっているまなざしに注意を向けさせ、しかもそれは人間としてのありかた、倫理にも関わってくることを話しました。その上で、どうして聞こえない子どもは発音が難しいのかについて科学的説明をしました。もちろんその時も聞こえない子どもとのコミュニケーションで声のみに限定することの倫理的問題も補足しつつ。
そして手話を覚えたからといって、それだけで相互理解につながるわけではない。目の前の聞こえない人とともに生きていくのなら、その人とどのようにわかりあうことが大事なのか、その人との関係のなかで考えることが大切であることも。
こうして聞こえる子どもたちに、「声がヘンだ」という私との対話を通して、自分の言動がお互いにわかりあう目的とつながっているのかを吟味することと、そのために科学だけでなく倫理に関わることもきちんと加えて人間として大切なことは何かを伝えてみたわけです。
(Special thanks 松﨑丈先生)
障害者差別解消法や手話言語条例が目指しているのは「共生社会」です。
しかしついつい「ろう者や障がい者はこんなことに困っている」という視点から発信されがちです。その方が聴者や健常者には伝えやすい部分もありますが、立場や視点を変えれば「お互い様」なんだと思うことが共生社会に繋がるのではないでしょうか?
とても難しい課題ですが、松﨑丈先生(宮城教育大学准教授でろう者)のFBでの投稿(7/28の投稿~原文はnoteより)に学ばせていただきましたので、転載してご紹介します。
「困っている事」の意味。
ある手話サークルの話。
どこでもあるような話かもしれない。
手話を学ぶ聴者は、自分はろう者のためにできることをしたい、だからろう者や手話について理解したい、だからろう者の方から困っていることをもっと語ってほしい、と言う。私は問う。じゃ逆にあなたがろう者に自分のことで困っていることを語ることはしますか?と。問われた聴者は、そんなことは考えたことがないと目が点になり、それは必要ないでしょう、ここはろう者のためにあるところですから、と答える。この人は、ろう者から助けられる立場になるなんて全く想像もしていないだろうと思った。
自分は困っている人ではない、困っているのは相手の方だ、と考える。これは、自分は困ってはいけない人なのだと思ってしまっているからなのだろうか。そうなると、困る権利はどちらかにあるのかと議論しているようで、どうも話はおかしくなる。
どうせなら一緒に困ってみてはどうだろうか。それぞれが困っていることを披露してもよいと思う。へぇ!こんなことで困るんだね!!と。お互いに「異質な他者」同士。他者理解、さらには自己理解につながる意外な発見につながるかもしれない。
一緒に困ることは、共に生きることを歓迎することだと思う。困っている人は孤独じゃなくなり、困ってはいけないと思っている人も固定観念から解放される。ひょっとしたら当事者同士で納得のいく「共生」は、一緒に困ることから生まれることが多いかもしれない。一方だけが困り、もう一方は困らないようにふるまうことが、必ずしも「共生」につながるとは思えない。
困ることは、時として助ける立場にいる側の持っている知識や技術の範疇を超えてしまう。助ける立場にとってその範疇を超えられることは、自分の存在意味を喪失してしまいそうになるからしんどくなる。できるだけ困らないようにしようとする。さらにしんどくなる。
カウンセリングの世界では非常に有名な臨床心理学者カール・ロジャーズもそうだった。彼も助ける人であり、困っている人に答えを与えるものだと考えていた。ところがあるカウンセリングで状況が思うように改善されえない事態に直面した。やがて、自分はもう万策尽きた、困っていることを率直に認めよう、クライエントに話を聞いてみようじゃないか、助けられる立場になろう、とクライエントと考えてみることを始めた。そしたらクライエント(=困っている人)との対話の中に答えが見えてきたのだ。これがきっかけで、「来談者中心療法」「エンカウンターグループ」などより多くの人々を助ける素晴らしいアイデアを生み出した。こういうドラマティックな経験は、カール・ロジャースのような偉人に限らず、私たちも日常生活ですることがあるだろう。もちろんそのアイデアの内容の素晴らしさや規模の大きさは色々でいいと思うけれど。
それでも困っていることを相手に打ち明けることは、相手に負担をかけるものだと思い込んでしまってなかなかできないものだと思う。そうして打ち明けなかった場合、状況によっては自分への負担がさらにかかり、相手にもかけてしまうこともある。また、人を助けることはいいことだけれど、人から助けられることについては相手に負担をかけてしまうから申し訳ないと思い込んでしまうことも。でも、困っていることを分かち合うことで生きることが楽になるし、助けたり助けられることで共に生きることが楽しくなってくるのではないか。
カール・ロジャースのように、自分は困っている人ではない、助ける人だと思い込んでいた人が手詰まりになって、自分は困っているのだと受け入れ、相手との係わりのありかたを改めて対話を図ってみた時に、一筋の光明が差し込んだように自分と相手の助け方について新しい何かに出会うことがあるだろう。
だから、冒頭の手話サークルの話のように、一方が困っている人であり、他方が困ってはいけない人と「枠」に当てはめることにあまり意味を見いだせないのではないか。新しい何かに出会う道を閉ざしてしまうし。みんな潔くカール・ロジャースになればいいのではないか。ろう者とか聴者とかは関係なく。「共生」する場に身を置くのなら、お互いに「困っていること」に踏み込んで、一緒に対話することを試みていいと思う。
困っていることは、人間として尊い行為であり、私たち次第で「共生」につながるアイデアを提供してくれるものにもなりうる。これは、どこでもあるような話かもしれないし、実際どこでも見られるような風景になれたならどんなに素晴らしいことか。
(Special thanks 松﨑丈先生)
2018年4月9日の北都銀行新入行員様の研修会で、mami satoさん(2017年9月18日の手話の活用を考える講習会&WS「災害対応」の講師でろう者です。)のブログ「ねこちゃんねる」の記事を事例として使わせていただきましたので、転載してご紹介します。
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私が初めてその歯医者に予約する時、 受付に耳が聞こえないということ、 筆談が必要だということを お伝えしたうえで予約を取ったのですが、
当日私が歯医者に行くなり、受付から私に対して
「どうすればよいのか?」
ということを積極的に聞いてきてくれたのです。
それだけでなく、私が帰ったあともその情報を共有していたようで、 2回目、私が歯医者へ行った時は 全ての歯科助手などが同じ対応をしてくれていました!
これにはびっくり・・・。 こういうことができる所は嬉しくなるし、 通いたくなりますよね 笑
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Special thanks mami sato様
私はmami satoさんの「ねこちゃんねる」というブログから色々と学ばせていただいています。とても分かりやすくて参考になるので、先日の北都銀行新入行員の皆さんへの研修会でも2つの記事を活用させていただきました。
ひとつは「私がある歯医者をお気に入りになった理由」
そしてもうひとつは、筆談のコツがとても分かりやすく描かれている
「ねこちゃんねる/筆談は簡単にしたほうがもっと気楽に関係を作れるかな」
という記事で転載してご紹介します。
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筆談は簡単にしたほうがもっと気楽に関係を作れるかな
(2018/03/06)
今回は、以前この記事で書いた「文は簡単に書いても大丈夫」だと言った理由について書きますね。
http://catfood22.blog.jp/archives/24789927.html
また今回は、アプリなどを使わずノートなどに直接書くタイプの筆談に絞って書いています。
今回は例として接客業のパターンを描いてみましたが、
普段、手話ができない人と接する時もこういうパターンはよくある気がしてます。
つまり、
【口で話すのと全く同じことをきちんと書かなければならない!】
と思ってるとか。
具体的には
「ようこそ、いらっしゃいませ」
「どちらへ行かれますか?」
「初めまして。お名前を教えていただけますか?」
など。
基本的に語尾などを丁寧に書いてくる人は非常に多いです。
これはこれで、初対面同士だと「マナーを守る」と言う意味では大事な場合もあると思います。
でも、それがあると、逆に聴者は
【めんどくさい】
【そこまでいちいち書くのは大変!】
と思ってしまい、筆談を避けてしまうこともあります。
なので、もし自分が「簡単でも良い」と思ってる場合は遠慮なく今回のように、
「簡単に略してくれても良いので」
と声をかけておくと、気が楽になることもあるかもしれないなと思ってます(^-^)
その方が相手もホッとするかもしれませんしね。
(もちろん、筆談が嫌なのではなく、その人自体が嫌という場合もあるけど。。( ̄▽ ̄;))
まぁそれはともかく、
手話がなくてもお互いに気持ちよくコミュニケーションするためには
お互いに気が楽になるように声かけしておくのも一つの方法かな、と私は思っています(^_^)
それでは、また(^-^)
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