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2016-12-30 03:50:00

FBで友達になったReed Mohamedさんの体験談や思いにとても共感しました。彼女は日本人のろう者ですが、夫がエジプト人です。

 

DeafLife_Brigeというサイト(有益な情報が満載です)のコラムからですが、多くの人に読んで欲しいと思いました。許可をいただきましたのでNo1~No8まで転載してご紹介します。

 

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Reem MohamedさんのコラムNo1「ろう学校幼稚部」

 

(2016.02.05)

私は、普段は会社に勤め、時々中近東情勢をブログに載せています。

私がろう者ということを知らない方からは、「ジャーナリストですか?」という質問を頂くが、そういう風に思われていることはとても嬉しい事であります。

しかし、残念ながら堂々と胸を張って「はい!そうです!」なんて言えない(笑) そんなことは、さておき、自分の事を書いてみようと思います。

 

私は、先天性風疹症候群による先天性の聴覚障害者。

つまり、母が私を妊娠中に風疹にかかってしまい、それが原因で私の耳が聞こえなくなったということである。

この事実を知っていたのは、父だけだったらしく母が入院中に医者からの告知を受けたそうだ。

 

母は、産後までずっと全くこのことを知らずにいたらしく、ただ祖母だけがなんかこの子はおかしいと怪しんでいたそうだ。

やがて、大きな音に反応しないということに、母は気づき色々な病院に連れていっても結果はどこも同じだったそうだ。

「手術することは出来ません。一生治りません。」 母は、私を道連れにして自殺しようとまで考えるほど打ちのめされたと、後で教えてくれた。

 

三歳でろう学校の幼稚部に入学すると、そこにはもう言葉では言い表せないほど厳しい壮絶な戦いが待っていた。

この頃の、私と言えば補聴器になれずつけるのを嫌がって投げていたらしい。。。。 この時は、別に「口話至上主義」ではなく、小学生から高校生のお兄さん、お姉さんは手話で会話をしていたから、当然子供たちも手話で会話をしたいと思うわけである。

 

しかし、私たちの時に手話禁止になったのである。

担任の先生が、親たちに「お父さんお母さん、大変心が痛むと思いますがこの子たちの将来を見据えて考えて欲しい、今後、手話が使える人が増えたとしてもわずかに過ぎない、この子たちがコミュニケーションで苦労すると思います、だから手話を使わないで下さい」的な事を話され、それからというもの、発音の訓練、聞き取りの訓練、読み取りの訓練が始まった。

 

家に帰ってからもそれは同様で正しい発音が出来るまで泣いても何回も繰り返し繰り返し言わなければならなかった。

「なんで出来ないの!」ってぶたれたこともある。

絵日記を毎日書くことが習慣で、文章も助詞を間違うと「ちがうでしょ!!!」って鬼のような顔で言われたこともあった。

大泣きしても、その訓練は終わることは無かったから、親をたたいたりして癇癪を起こして物を壊したこともある。

※あとで祖母が「あんたのお母さんはな、ここに来ては泣いていたんだよ、なぜここまで厳しくしないといけないのかって」って教えてくれたので、父も母も本当は辛かったんだなって思ったのです。

 

しかし、訓練の時間が終われば楽しいこともいっぱいあったので、それだけは幸いだったと思う。

父と、車に乗って旅行に行ったりそこらへんの子供と同じように買い物に行ったり家の近くが海だったので、色んな魚や貝を捕ったりしたこともあった。

私は、昼までろう学校の幼稚部に通って、家に帰ったら今度は近くの公立の保育所に通うというコースだったから、保育所でのクラスメートとは言葉が通じないことからしょっちゅう喧嘩をしていたらしいが、都合の悪いことは忘れるというもので覚えてなかったりする。(冷や汗)

 

でも、今でも当時のクラスメートとは帰省すれば会って話す事もある。

保育所の時の友達と一緒に同じ小学校へ行くものと思っていたが、親はろう学校の小学部にそのまま行った方が望ましいと考えて、ろう学校の小学部へ。

そのまま、高等部までずっとろう学校で過ごし、大学に進学して国際比較文化や国際情勢などを専攻。

 

この時の話は、あまりにも長すぎるので後日に書こうと思う。

今では、手話も出来ますが普通に読み書きも出来て会話が出来るので親に感謝の気持ちでいっぱいです。

もし、親が心を鬼にして訓練をしてくれなかったら話せないままだったかもしれません。

 

ところで、よく、子供をろう学校に入れるべきか?普通の学校に入れるべきか?で揉める話を耳にしますが、大変難しい問題だと思います。

なぜなら、そこに「正しい」か「間違い」かという答えは無いから。

特別支援学校、ろう学校とも色々と繋がりながら、お子さんの聴力、学力、理解度なども合わせていかれたらいいと思います。

 

私は、ろう学校に通っていなかったら大学に行けるレベルに達していけなかったと自分の経験からそう思っています。

(あくまでも、これは私のレベルでという話です) インテグレーションも、(普通の学校へ行く)並大抵の努力がなければ、ご両親や周りの方のサポートがなければ決して楽では無いと思います。

特に、普通の学校では、中学生になると授業の内容も困難になり小学校と比べてスピードも早くなっていくので、理解が出来ないまま進んでいくとどんどんわからなくなり、孤独感を感じていくという話も聞きますので、その点では、ご両親の方、先生のみなさま、さりげなく今はどのあたりを理解出来たかな?など尋ねてみてください。

 

「ろう教育」についても、こちらのコラムでまた書かせて頂きたいと思います。

長くなりましたが、今日はこの辺で。

 

何か、質問や聞きたいことがありましたら、遠慮無くメッセージを下さい。

Reem Mohamed

 

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コラムNo2「口話法って何?どんな訓練?」

 

(2016.02.08)

先日のコラムを読んで頂き、ありがとうございました。

我ながら、拙い文章だな、と読み直しては反省しきりです。

ところで、いくつか質問を頂いたので、今日はこの質問とその回答を載せようと思います。

そのあとに、聞こえないお子さんをお持ちの健聴のお父さん、お母さんにぜひ読んで欲しいなと思うことがありますので、そちらもぜひご一読下さい。

 

<質問> Reemさんの聴力はどれぐらいですか?

 

<回答> 110DBです。スターキーの耳穴式の補聴器を両耳に装備しています。 補聴器がなかったら、戦闘機が飛んでいるのもわからないです。

 

※デシベルについては、こちらをご覧下さい。 http://macasakr.sakura.ne.jp/decibel.html

 

<質問> 口話での教育とはなんですか? またどのような訓練がありますか?

 

<回答> これは、各地のろう学校によってまちまちですが、私の経験を書きます。

 

簡潔に書きましたが、分かりづらかったら申し訳ありません。

発音の訓練ですが、まず母音の「あ」「い」「う」「え」「お」を徹底的に訓練します。

これがうまく出来ないと、子音が加わった発音がうまく出来なくなるので。

次に子音の訓練になりますが、舌がどういう風になっているかを絵か先生が口の中を見せてくれてそれを真似してやるというパターンにいきます。

 

まず、子供たちの手をとって、先生がその手を胸に当てます。(セクハラでは無いw)

そして、振動と口の形で子供たちは学びます。

「か」行は、人差し指をのどのところに持っていきます。

「さ」行は、片手を(甲を上にして)唇から手前のところまで志村けんのアイーンの逆パターンに流します。

「た」行は、舌の上に間違っても飲み込めるような薄い溶けるお菓子を置いて、それが上にくっつくようになるまでやる。

「な」行は、人差し指を鼻に当てます。鼻に振動がくるまでやります。

「は」行は、縦に切ったティッシュの紙切れ(幅は2cmぐらい)を口の前に置いて、それが息によって前に動くことを理解して、そのようになるまでやる。

「ま」行は、ほっぺたに手を当てて、そこが震えるかどうかで繰り返しやる。 「や」行は、唇の動き、舌はどこにあるか?を見て真似していく。 「ら」行は、舌の動き、舌の先に前述のお菓子を置いてそれがどこに当たったかを言いながらやる。

「わ」「を」「ん」これは、唇の動きとか、どこが震えているかを指で当ててやる。

 

発音の訓練は、このような感じで次が「聞き取り」の訓練。

これは、先生が黒板に例えば「りんご」「みかん」「バナナ」とか絵と文字を書いて、唇を紙で隠して何を言ったかを当てる練習。

間違えれば、正解が出るまで続きます。

 

「言葉」をどのようにして覚えたのか?というと私の家には、あらゆるものに言葉が書かれた紙が貼ってあって、例えば、壁には「かべ」、花瓶には「かびん」。

本当に貼り紙のない所って無かったように思う。

全部、本当に理解出来たのか?と母も怪しい、、、、と思っていたと思う(笑)

 

コラムにも出ました、絵日記は、小学部に入るまで続き、何十年か経ってこの絵日記の存在を知った先生に後輩のために、譲って欲しい!と言われ全部譲ったので手元にはないです。

まず、母が「いつ」、「だれ」○「どこ」○「なに」○「どうした」というような単語が書かれた紙を貼っていきます。

その紙の下に私が答えを書きます。

○は、「が」「は」「を」「に」とかの助詞が入りますが、これも自分で考えて書かなくてはいけません。

間違うと、「違うでしょ!」「これじゃない!」と。。。

自分の気持ちも「楽しかった」「いやだった」「悲しかった」など、これも考えて書かないといけないので、絵と感情があっていなかったら、やり直しになります。

 

何回も間違えると、涙が出てもうやだよ!書きたくない!!て言って鉛筆を投げては絵日記も投げていたような。。。

絵も当然描くわけだから、出来上がるのに2時間か3時間はかかっていたと思う。

あとは、図書館にほぼ毎日のように通っていたため、(私が絵本が好きでどうしても毎日のように行きたがっていた)これも大きかったと思われる。

 

最後に、 上とは別ですが聞こえないお子さんをお持ちの健聴のお父さん、お母さんにぜひ読んで欲しいなと思うことを書きたいと思う。

 

私には、5才下の妹がいます。

妹は、大変頭がよく数学や物理に大変強く何でも出来る子でした。

もちろん、親の言うこともきちんと聞いていて、反抗期というその言葉とは全く無縁で 私の親は妹のことをよく出来た子だ!と自慢していたように思います。

 

しかし、中学生になると突然体調を崩すようになり次第に学校に行くのが嫌だ!というようになりました。

(いわゆる登校拒否ですね) 親も、この出来事にどうして?!なんで?!と妹に何回か話をしたり気持ちを聞こうとしたりしたけど、結局 妹は話しませんでした。

 

私は、当時 県外に住んでいたのである日親がいない時期に家に帰ったら妹がいたので、二人きりになることはあまりなかったので、「なんでだ?お父ちゃんもお母ちゃんも心配してるぞ!なんかあったのか?」って尋ねました。

すると、妹はそのうちに重い口を開けて 「うるさいんだよ!お姉ちゃんばかりいい子ぶって!!」 「なんでわからないの!!お父ちゃんもお母ちゃんもお姉ちゃんばかり見て、何があってもお姉ちゃんが、お姉ちゃんが!!!そんなことばかり!」 「例えばお姉ちゃんが門限破って遅く帰るとお父ちゃんは家の外で仁王立ちして待って、そして怒るじゃん!なのに、自分が遅く帰っても怒ってくれない!あなたは聞こえるから大丈夫だね!」 「お姉ちゃんは聞こえないんんだから!」 「そんなことばかり!!!」 かなり衝撃的で、こっちがガツンと斧で頭をやられたような感じだったのを覚えています。

 

このことを、親に私から話したところ、2人ともショックを受けていました。

自分では、平等に愛しているつもりが妹にはそう感じていなかった(受け取れていなかった)ということ。

それから、親と妹の間で話が行われたようですが、どういう風になったのかは私はその場にいなかったのでわかりません。

が、妹が今までそんな風に我慢というか、気持ちを抑えてきたことに少なからずともショックだったので、こういう事があったということをろう学校で講演があるたびに、保護者の方や先生たちにも話しています。

でも、妹はそれから学校に毎日通うようになり、難関の学校に進学して今では立派なエンジニアです。

 

このような事がありましたので、どうか思い当たる方がいらしましたらぜひお父さん、お母さん今のうちに話し合って改善していかれてみてください!!

 

Reem Mohamed

 

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コラムNo3「小学部~高等部の思い出」

 

(2016.02.10)

ろう学校のことを、法令上では、特別支援学校というが、その名称をつけない学校もある。

 

ここでは、混乱をさけるためにも、「ろう学校」で記述する。

                   ※漢字では「聾学校」と明記する。

 

ろう学校には、幼稚部、小学部、中学部、高等部、「高等部の専攻科」があり、入学資格はそれぞれ幼稚園、小学校、中学校、高等学校、「高等学校の専攻科」に準じている。

国立・公立・私立の聴覚障害者を対象としている、ろう学校は全国で106校ある。

 

さて、私のことを書こう。

私が小学部に入学した時、普通の小学校へ転向した同級生もいたのにも関わらず、ろう学校の中で一番人数が多い学年として注目されたような気がする。

小学部でも、相変わらず発音の練習や聞き取りの練習などは続き、一般の小学生が文字を書いて覚えていくとか、算数の勉強をしていくとか、そのような勉強が全くなかった。

 

2年か、3年の時だったと思う、私たちの親が集まって先生たちに強く抗議をしたらしい。

私たちの親は、親同士での団結力も他の学年の親よりもとても強かったと思う。

そして、自分の子供ではないのに、同級生が発音が悪かったらその都度、「今の発音悪かったよ?もう一度「さ」って言ってみて?」とかそういう注意をしてくれる親もいたから、それだけ、子供たち全員が自分たちの子供という気持ちも強かったのだろう。

 

先生たちの中に、ろう教育に熱心か、その専門の知識をもっている先生が全くいなかったというのも、あるかもしれないが、親たちはものすごく怒ったということを成人してから知った。

先生たちも、親たちの剣幕に驚いたらしいが、何のために「先生」になったのかを改めて考えさせられた日でもあった、と教えてくれた。

 

私たちは、そんな事があったとは露知らず、ある日、いきなり教科書を机の上に開いて普通に国語、算数、理科などの勉強が始まり大変戸惑ったものである。

しかも、ベースも早くあがるから、どこかで誰かが内容が全く理解できずに取り残されてしまったということも、何回もあったと思う。

でも、突然だったし、それぞれ理解できるスピードが違うわけだからマイペースな人は大変だっただろうなと、今も振り返ってそう思う。

 

小学6年になると、当然中学部への進路を考えるわけだが、その時にもう中学を出たらどうしますか?という話もあった。

私が、小学部にいた時、高等部は木工と被服という専門の学科しかなかった。

小学生ながら、なんでこの学科しかないの?嫌だ!そんな学科行きたくない!!と思っていた。

そして、出来たら、大学にも行きたいなと密かに思っていた。

 

中学部にあがると、部活にも入らないといけない、授業のスピードはあがっていく一方で、内容もますます難しくなってくるし、本当に学校へ行くのも憂鬱だったと思う。

私は、国語、英語、社会(歴史、公民)はかなり得意なほうだったけど、数学がとても嫌いで数学なんか無くなればいい!と本気で思ったことがある。

 

中学2年の時に、同級生みんなで「普通科」を作ってもらおう!ということで先生、校長先生にお願いをした。

中学3年の秋だったと思う、教育委員会から許可が出て「普通科」ともう一つの学科が新設され、木工と被服はもう一つの学科に一部移行された。

 

こうして、高等部受験は「普通科」の第一期生を目指して受けたのだが、そのあとは本当に色々な意味で大変だったと思う。

大学や専門学校などに、(私がいた)ろう学校からは誰一人として出たことがなかったから、みんな本当に大丈夫なのか?これで、大学にいけるのか?など色々な事を考えていたと思う。先生たちの中にも、大学なんて行けるわけがないよ!という人もいたから、それだけ未知の世界だった。

 

そして、校長先生が密かにお願いしてくださったのか、教育委員会の方が配慮してくださったのか、それはわからないが、県内の進学高校から何人か先生が転勤してこられた。

今まで、会ったことがないタイプの先生ばかりで、先生たちの方もろう学校に初めて転勤になってお互いに動揺したと思う。

 

普通の進学高校に通われた人なら、分かると思うが、中学部であれだけ苦労したスピードが更にアップして、気が付けば15ページ以上も進んでいるからうかうかしていられなかった。

私はと、全国模試の成績が悪かったりして先生に呼ばれて怒られるということも一度や2度ではなかったと思う(笑) 特に、数学でどうしても成績があがらず、ひそかに塾に通っていた。中間テストや期末テストなんて、本当に地獄だと思った。

試験前の勉強をサボって、どっかへ遊びに行くとよく母と喧嘩になっていたが、父には、いつも「頼むから0点取ってくれ!0点取ったら、何かいいものをあげるからさ!!」と言われたものだった。(苦笑)そういわれると、俄然やる気が出てくるものだった(笑)

娘の性格を良く知り尽くした上での、父なりの励まし方の仕方だったとは思うが、実際に言われる方は悔しいのである(笑)

 

私の幼馴染の何人かが、県内でも有名な進学高校に通っていて東大とか京大に行くためのコースを選択していたので時々、ノートを見せてもらったことがあるが、本当に変わらない内容だったから、今でも我ながらよくついていけたな、、、と思う。

2年の時には、何回も相談して志望の大学を決めて、3年には泣いても笑ってももうこれが最後だという気持ちで大学受験に臨み、合格し、そのまま志望の大学に進学しました。

 

長くなりましたが、「夢」を叶えるためには私の場合、本当に環境や多くの人たちの支援があってこそ、出来たものです。

大学に行く人が今までいないのに、、、というその壁を打ち破ってくれた当時の先生や校長先生には感謝しても感謝しきれない気持ちでいっぱいです。

 

ところで、余談ですがあれほど大嫌いな数学や物理や化学にもう関わる事はない!と思っていたのに、今はそれらが必要な仕事に就き、本当に人生とはわからないものです(笑)

高校時代に、もっと真面目に勉強すればよかったと後悔することもしばしばです(笑)

 

Reem Mohamed

 

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コラムNo4「"ろう教育”における私個人的な考えも含めて」

 

(2016.02.26)

今日は、「ろう教育」について私の個人的な考えを含めて書こうと思います。

 

「聴覚障害者」といっても、全てを一括りにすることは出来ません。

世の中、思考、考え方、性格などが異なる千差万別の人間がいます。

聴覚障害者も、聞こえのレベルが軽度だったり中度だったり高度だったり、そして二重以上のハンディをもっているという人もいます。

 

私は、「ろう者」ですが先に書いたように「口話史上主義」の時代のろう学校で過ごしたので、「手話史上主義」というタイプの方とは全く異なります。

聞こえのレベルはもとより、育った環境、家庭や学校での考え方なども加わって「手話」を使う頻度も変わってくるように思います。

 

また、「ろう教育」については、色々な議論が各地で行われています。

ろう学校における「ろう教育」についてFacebookでも少し自分の意見を述べましたが、これは一般の小、中学校の特殊支援クラス(あるいは難聴クラス)でも同じことが言えると思います。

 

見逃されやすい教師の採用についても、みんなで考えていく必要があります。

各地で、この件について議論がなされていますが、日本全国で統一していく必要があるのでは?と思います。

私自身、一般の会社員のためろう学校の教員たちが集まって会議などを行っているかどうかはわからないのですが、おそらくあると思います。

 

さて、ろう学校及び特殊支援クラスの教員について、多くの方が誤解されてるのが、以下のケースの場合です。

教員採用試験は、都道府県によって差異はありますが、必ずしも、特別支援学校勤務において、特別支援学校教諭免許(聴覚障害者だけではなく視覚肢体障害者などの特別支援教育の分野)か 旧聾学校教諭免許が必須ではありません。

特別支援教育諸免許を持つ人を別枠で取らず、小中高の基礎免許を基に一括採用する都道府県がほとんどという現状です。

 

だから、本来ならばこの特別支援学校教諭免許、旧聾学校教諭免許を所持しておられる教師がろう学校に採用したほうが「ろう教育」としても最適であるわけです。

しかし、この小中高の基礎免許を基に一括採用する制度があるために、どうしても専門的な知識を持っていない先生が採用、転勤で来られるわけです。

ですので、ここが一番のポイントだと思ってください。

 

ろう学校=教員はみんな手話が出来る、子供たちも手話を覚える

こういう概念を持たれた方も多いかと思います。

 

しかし、現実はそうでもない学校も少なくないと思います。

先生方の中には、「ろう教育」「手話」とは全く無縁のところから来られる方も多いので先生方々も「ろう学校」でどうしたらよいのか、何をしたらよいのかで戸惑い、悩む方も多いだろうと思います。

ここで、本来ならば先生方の「手話」が、コミュニケーションのズレが全くないレベルが理想的ですが、先生方も初心者だったり、大学などである程度は出来るというレベルが多いかと思います。

 

長らくろう学校に勤務されておられる先生も中にはおられるもようですが、いつかは、先生も定年を迎えられます。

そうすると、後継ぎといったような感じの先生方がなかなか出てこなくなります。

こういったことが、「ろう教育」においては一番大事な土台だと私は思います。

 

ところで、※下の色文字をクリックして下さい

文部科学省のHPで特別支援学校教諭の免許資格を取得することのできる大学の一覧

 

がありますが、そちらを見て頂いたらわかるように、聴覚障害者を指導するための専門的な学部が非常に少ない事もわかります。

そして、小中高の基礎免許を所持する教員が、教員在職年数と単位修得により特別支援学校教諭免許状を取得する場合もあります。

 

このように、「ろう教育」における必要な専門知識を持った教員を育成する環境なども重要だと思います。

でも、先生方の中には「ろう教育」を真剣に考えてどのようにして子供たちと向き合っていくのか?子供たちに必要なことは何か?を考えておられる方もいっぱいおられます。

 

ところで、私は「口話史上主義」のろう学校にいたのですが、時々「手話史上主義」だったらどうなっていたのだろう?と考える時があります。

 

私の考えでは、言葉を知るためには「手話」は欠かせないものだと思っています。

「手話」を通して、「語彙力」が増えていくと思います。

発音の訓練や、聞き取りなどの訓練、文章力なども、もちろん大事ですが、それにかける時間を使うなら、やはり「手話」で「言葉」を知って覚えたほうが早いと思います。

そして、授業を手話で行うことは、大事なポイントなどを抑えることができ、些細なすれ違いがなくなると思います。

手話がないと、やはり音の区別が出来ないので、例えば「まだ」「また」などで混乱すると思います。

 

「手話」を基本として、「口話」を学ぶというスタンスがあってもいいと思います。

 

ところで、健聴者の友人が海外に旅行に行って会話が通じなくてつまらなかった!という話をときたまに耳にするのですが、ろうの友人は全く英語が話せないのに、現地の人とすぐ友達になって色々な思い出を作っている人がいます!

この友人は、普段は手話を使っています。

手話が出来るからこそ、音に頼らないから、なんでも身振り手振りでやっていけるのです。

(さすがに、その国によってはタブーされている身振り手振りは覚えていくもようですが)

 

だから、海外で長く生活している聴覚障害者の人たちもいっぱいいます!

次回は、何を話すか?まだ考えていませんがお楽しみに!

 

Reem Mohamed

 

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(Special thanks Reem Mohamedさん)