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2016-12-30 03:20:00

 

(2016.08.08)

「聴覚障害者」たちが困っている事、「手話」は何か、などアンケートの結果も合わせて私個人の考えを書きましたので、どうぞゆっくりとお読み下さい。

(Reem Mohamedさん)

 

 

※色文字をクリックするとリンク先へジャンプ出来ます。

 

以前、こちらでアンケートのご協力をお願いしていました。

ご協力して頂いた皆さん本当にありがとうございました。

アンケートは、400以上も来て200ぐらいかな?と思っていたので、大変驚きました。

もう少し、色々と質問を書けばよかったかも知れません。

色々な方の意見や質問で大変興味深い内容がありましたので、私の意見も合わせて載せます。

どうぞ、お時間の有るときにゆっくりとご一読下さい。

 

アンケートに協力して頂いた方は、聴覚障害者と聴者がほぼ半分という割合でしたが、女性が圧倒的に多かったです。

 

聴覚障害者の方が日常生活で一番困っていること、困っていると思われることは何ですか?

 

回答の多い順番に並べました。

 

鉄道、バスなどの公共機関での放送(事故や遅延などの放送) 51.2%

後ろから近づいてくる車や自転車 38.3%

テレビに字幕がついていない 32.7%

病院などでマスクがあって口が見えない 32.1%

補聴器をつけているから聞こえていると思われて早口で話されること 30.9%

町内アナウンスが聞こえない 27.5%

聞こえないから、手話がわかると思われていること 22.8%

お店などでスタッフが手話に対応できない 19.1%

宅配サービス、郵便局などの方が家に来たときに話が通じない 19.1%

子供の学校での事(参観日、面談、行事など) 18.5%

学校に必要な情報保証がついていない 18.2%

目覚まし時計などがあっても気付かなくて起きられない 14.2%

その他 14.5%

 

その他という欄には

 

・職場での雑談を知りたいのに、会話に入ることが出来ず孤独感を感じる

・職場での会議で、会議のレジュメがあっても、情報保障がないため、どこを話しているのか?がよくわからない。(テレビ会議だと尚更わからない)

・耳が聞こえないということは、どういうことかなかなか理解してもらえない

・病院などで行っている患者の会(例えばガンの患者の会とか)に手話通訳をお願いしたら拒否された

・情報保障をお願いしても、条件によっては断れることがある

・家族が聴者で、自分1人だけがろう者。会話に入り込めず孤立。

・中途失聴、難聴で聴力レベルによって級が異なるが、それだけで福祉の手当てや、情報保障が「ろう者」より乏しい

・中途失聴、難聴は、ろう者と違って聞こえると思われ情報保障不要、努力が足りないといわれる

・ろう者には、手話が必要という認識が不足しているのか、筆談で大丈夫だと言われ困る

・火事などの緊急時の避難時の呼びかけが聞こえない、わからない

・聴者のルールがわからない

・場の状況がわからず、どう対応すればいいのかわからない

・暗黙の了解が聴者には通じるが、聴覚障害者には通じないということを知らない人が多い

・誰でも読唇(唇の動きを読み取って何を言っているのかを理解すること)が出来ると思われている

・夜間などに緊急時が発生した時の連絡手段があまりない

・大きい声、耳元で話せばいいとおもわれていること

・補聴器=聴者と同じように聞こえるもの、と思われていること
・聴覚障害者同士、または関わる人同士でも認識の違いや互いの立場での理解不足や誤解もあるということをしってほしい

・地域によって手話も異なるところがある、「日本語対応手話」と「ろう手話」があるので覚えるのが大変だ

・字幕表示ができないリモコンのある(またはその設定をさせないようにする)テレビを置いているホテルが多い

・手話通訳者、要約筆記者が不足している

・情報保障を依頼する際の報酬が高すぎる

・ろうあ連盟や難聴協会などの協会で閉鎖的なところがあるので、みんなが気軽に入れるようにして欲しい

・字幕付きの映画が少なく、楽しめない

・盲ろう者がいるということも知って欲しい

・聞こえない人に話すということは、歩けない人に歩けと言っているようなもの

・電話が出来ないのに電話が出来ると思われていること

・口語(口で話す事)はどんなに頑張っても限界がある

・中途失聴だから、話していくうちに聞こえていると思われて早口で話されてこまる

・大勢の中でみんなの口を読み取るのに疲れてしまう

 

※情報保障(じょうほうほしょう)とは、身体的なハンディキャップにより情報を収集することができない者に対し、代替手段を用いて情報を提供すること。

情報保障とは、人間の「知る権利」を保障するもの。

いつでも、誰も情報が伝わらない状況に陥る可能性がある。

特に聴覚障害者は、音声によって提供される情報や会話を理解できないため、日常的に情報から疎外されているといえる。

そのため、一般的に「情報保障」とは、聴覚障害者に対するコミュニケーション支援を指して用いられる。

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こうしてみると、いかに聴覚障害者が様々な場面で困っている事は何か?がよく分かると思います。

 

聴者の方から見ると、当たり前に思っていることが、私達聴覚障害者たちにとってはそうではなく、不便を感じたり不快感を感じることがあります。

 

鉄道、バスなどの公共機関での放送(事故や遅延などの放送) が51.2%と多かったのですが、私も乗っていた電車が人身事故を起こして緊急停止になった時に、何が起きたのかわからず、周りの人を見るしかなかったです。

 

ドアが開いて、みんなが降りているのはわかったけど、その後がわからない。 

親切な女性が、丁寧に説明して下さって、初めて人身事故を起こしたこと、振り替え輸送で近くの別の鉄道の電車に乗ること、、、、そのやり方など何から何まで初めての経験でその方がいなければ帰れなかったと思う。

 

本当に、こういうときの状態ではみんなパニックになっているか自分のことで必死になっているから聞こうとしても教えてくれない人もいると思う。

もし、おろおろしていたり「あの、、、」って話しかけて来る人がいたら、立ち止まって「どうかされましたか?」っていう声かけをして頂けたら嬉しいと思います。

 

あと、『聴者のルールがわからない』これについてはまた別のコラムで書かせて頂きたいと思います。

 

ところで、視覚障害、肢体障害の体験はアイマスクとか電気を消すとか、車椅子にのるとかで体験をすることが出来ます。

 

しかし、「音が聞こえない」という体験は、どうしても難しいです。

なぜなら、どんなにヘッドホンをしても耳栓をしても隙間から音が聞こえてきます。

テレビの音を消して、字幕なしで好きな番組を見るという方法が一番わかりやすいかもしれません。。

 

聞こえない人でも、色々な人がいます。

大きく分けて「ろう者」「中途失聴者」「難聴者」「老人性難聴」とあります。

こちらに詳しく書かれていますので、ご覧下さい。

「聴覚障害者とは」

 

聴力のレベル、いつ聞こえなくなったか、などで受ける福祉の制度も異なったり情報保障をどこまで必要としているのかが理解されなかったりします。

私は、人工内耳の方でも中途失聴の方でも「聞こえない」のは「聞こえない」と思っています。

 

分かりやすい言葉で言うとその人がその場で必要としている情報が100%完璧に取得されていないということです。

100%完璧に情報を取得するためには、1人1人のレベルに合わせた、情報保障と周囲の理解が何よりも大事だと思います。

 

周りの人に、自分がどれだけ聞こえないか、何の情報保障がどのように必要なのか?を伝えることは、とても勇気がいることだと思います。

でも、別に恥ずかしいことではありません。

なぜなら、聞こえる人も事故、病気、加齢などで聞こえなくなる可能性もなくはないからです。

 

聞こえない人が、どう感じているのか?

補聴器があるから、聞こえていると思っている方は、改めてもう一度、その方に尋ねて見て下さい。

その「思い込み」がお互いのズレを生んでいるかもしれません。

テレビと映画の字幕については、のちほど別のコラムで取り上げたいと思います。

 

手話が「言語」であることを知っている。

 

96.9%が知っていると回答。

 

知らないと述べた人の中にも、聴覚障害者がいたので、全ての人にもっともっと呼びかけたいと思う。

 

また日本手話(ろう手話)は、日本語とはまた別の言語です。

手話は、言語学的には、音声や文字を媒介とする言語と同じ緒特徴を共有する記号体系である。

 

1960年にギャローデット大学の言語学者、ウィリアム・ストーキー(William Stokoe)が『手話の構造』という論文を発表。

手話は、音声言語と変わらない、独自の文法を持つ独立言語であるという内容。

これをきっかけにして1970年代以降、手話を言語学としての研究対象とする学者が増え、現在では、言語学者の間で「手話が言語である」というのは常識になっている。

 

あなたの住んでいる所では、手話は手話言語条例(呼び方は地域によって異なります)になっていますか?

 

はい 29.6%

いいえ 33.0%

しらない 33.7%

 

「知らない」と答えた方の中に、聴覚障害者の方がいました。

『手話言語条例』そのものがあるということを、知らないのか?

それとも、自分が住んでいる所の聴覚障害者への活動に無関心なのか?

それは分かりませんでしたが、「知らない」ということは非常に残念だと思いました。

 

もう一度、障害にあるなしに関係なく、皆さんお住まいの自治体がどうなっているのか?を
こちらで確認してみて下さいね。

手話言語条例マップ

 

でも、中途失聴の方、手話を知らない難聴の方にとっては「要約筆記」の方が重要だと思います。

要約筆記の重要性も、手話と一緒に広めていかないといけないなとも思います。

 

『手話言語条例』とは何か?を下に書いておきます。

 

『手話言語条例』って何?
全国に先駆けて手話言語条例を制定した鳥取県のHPにわかりやすく掲載されていますので、そちらをご覧下さい。

鳥取県手話言語条例 

 

手話を覚えたいと思いますか?

 

はい 75.6%

いいえ 6.2%

その他 18.2%

 

覚えたい!という人は、以下のような回答がありました。

 

・周りの人の影響・職場に聞こえない人がいるので、コミュニケーションを図るために

・手話は新しい手話も生まれてくる、ろう者だけどもっと覚えたい

・手話はとても楽しいし、ろう者と聴者がコミュニケーションをとればとるほどお互いが近く感じられる

・ろう者の不安を少しでも理解し、通訳が出来たらいい

・様々なコミュニケーションの支援の1つだから

・言語の1つとして、手話を勉強したい

・筆談より早いし、時間がかからない

・ろう者にとって必要な言語であるということを理解しているから

・聞こえない人が考えていること、その文化や歴史を知りたいから

・聞こえる人の考え方を知ってほしい

・筆談では意思疎通が出来ていないことをしっているから

・恋人・配偶者が聴覚障害者だから

・人工内耳装用ですが、外しているときとかは聞こえないので、コミュニケーションを図るために手話を覚えたい

・未知の言語への興味

・観光に来た外国人に、道を聞かれたときに英語で答えるのと同じように手話で聞かれても手話で答えられるようにしたい

・同じ国に住んでいるから、聴覚障害者たちの「言語」も覚えたい

・聴者でも煩いときには非常に便利・言語学者として、研究の一環として覚えたい

・言語関係の仕事をしているので、言語取得の研究の一環として

・突発性難聴で、いつかは全く聞こえなくなると思う、そうなれば手話を知っていた方がいい

・手話を知っているのと知らないのとでは、聴覚障害者の方が困っているときの対応も違う

・手話を使わない聴覚障害者の方がいると聞いたことがありますが、それでも知っていれば手話を使う人の手助けになるかもしれないから

・コーダだから

・デフファミリーだから

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覚えたくないという人は、「聴者」が多いかと思っていたのですが、その逆で「聴覚障害者」が多かったです。

 


・中途失聴ですが、ろう者に手話を覚えて!と押しつけられたから覚えたくない (覚えたい気持ちはあるが、押しつけられたのがトラウマ)

・周りに手話を理解出来る人がいない

・日本手話と日本語対応手話の2つを覚えるのにエネルギーと時間を費やしてしまうので、筆談で対応した方が伝わりやすいから

・周囲に手話が出来る人がいないので、覚えても通じる相手がいない

・中途失聴だから手話が出来なくても問題が無い

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編集者は、先天性のろうですが、、、手話を押しつけられたという方の回答に申し訳ないと思いました。

どなたかは、わかりませんが、その押しつけた(?)という方に代わって、嫌な気持ちにさせて申し訳ありません。

 

私の勝手な推測でしかないのですが、恐らく、その方は「聞こえないから手話で話して!」とか「中途失聴でも手話で話すべきだ」とか「ろうとのコミュニケーションで手話じゃないとだめ!」とか、、、押しつけているつもりではなかったと思います。

 

確かに、ろう者にとっては「手話」は大事な「言語」です。

でも、いきなり無理矢理覚えろ!みたいに話すのは良くないと思います。

英語が苦手な人に、いきなり長文の英語を早口で話しているのと同じです。

 

ところで、確かに周囲に手話が出来ない人が多いと、覚えても意味が無い!とか、忘れてしまうし興味がなくなる、ということは手話に限った話では無いと思います。

英語やスペイン語、、、ASL(アメリカ手話)でも、やっぱり使わなかったら忘れてしまいます。

 

こんな時にどうするか?というと、近くのサークルに通う、気の合う手話の出来る友達(障害に関係なく)を見つける(作る)、鏡をみて自分で練習する!など色々と方法があると思います。

また、手話でなくても筆談や音声認識が出来るアプリなど色々と意思疎通出来る手段がありますので、それらを自分が使いやすいように利用されたらいいかと思います。

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以下の回答は、手話をどのように「言語」として広めていくか?などを考慮した上での回答でしたので、紹介したいと思います。

 

・日本に生まれて日本語を当たり前に学ぶのと同じように手話も義務教育のカリキュラムの中で当たり前に学ぶ環境であって欲しい。同じ日本人なのに言葉(手話・言語)が通じないのは残念。だから、日本語と同じく手話を学びたい

・メディアも教育も一体になって手話を覚えた方がいい

・幼児期から学童期にかけて基礎となる教育がきちんと受けられていない。手話でも日本語でも学習言語取得として、学業が修められるような環境を整えること、幼児期の聴覚障害者の子供をもつ保護者に対するボシティブな説明や情報保障がなされていない。幼児期は本人による選択が出来ないために、後々の影響を与えた支援が必要だが、現在不十分である。

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本当にその通りだと思います。

特に、義務教育の中で手話で話す授業があってもいいと思います!

 

以前、アメリカのどこの州だったのかは忘れましたが普通のジュニアスクールに(小ー中学校)聴覚障害者の子供が何人かいて、その子供がいるクラスには手話通訳士が教室の左右に立っていて、子供たちに手話で通訳。

すると、聴者の子供もいつの間にか手話を覚えてしまい、誰が聴覚障害者で聴者かわからなくなるというレベルまでいって手話通訳者とも、手話で会話。

 

聴者の子供たちは家に帰っても兄弟に手話を教えて兄弟間での秘密の会話は全部手話で、、、という面白い話を聞いたことがあります。

日本でも、このようにすればみんなが手話に抵抗を感じることなく、当たり前に手話があるという社会になればいいなと思います。

 

幼児期から学童期にかけて基礎となる教育がきちんと受けられていない。手話でも日本語でも学習言語取得として、学業が修められるような環境を整えること、幼児期の聴覚障害者の子供をもつ保護者に対するボシティブな説明や情報保障がなされていない。幼児期は本人による選択が出来ないために、後々の影響を与えた支援が必要だが、現在不十分である。

 

こちらの回答につきましては、「ろう教育」のところで私の考えを書いていますので、そちらをご覧頂ければ嬉しいと思います。

「ろう教育」における私個人的な考えも含めて コラムNo4

 

ろう学校において、どのように子供たちとコミュニケーションをとればいいのか?

ろう学校以外の普通の学校や、支援クラスにおいても、口話か?手話か?

 

日本のあちこちで、色々と議論が出ていると思います。

口話至上主義のろう学校で高等部までを過ごし、大学を経て社会人として毎日を送っている私としては、口話も手話もどちらも大事だと思います。

 

ただ、日本語を学習するのに「手話」は絶対に必要だと思います。

最初から手話で「言葉」を覚えるのと、先に発音を覚えて「言葉」を覚えるのとでは時間的にも差があると思います。

 

手話で言葉をいっぱい覚えると、だんだん自分で自分の気持ちが言えるようになります。

でも、口話に拘っているとその時間がかかった分だけ言葉が覚えられない。

 

どちらにも、「正解」はないです。

ただ、口話にはどうしても限界があるし、口の動きを読み取るのも疲れるし、聞き間違えない確率は0%ではないということも、知って欲しいと思います。

 

どんなに頑張っても頑張っても聴者になれるわけではありません。

学業においては、障害がある無しに関係ないと思います。

障害が無くても、真面目に勉強をしない人もいますし。

 

ただ、聞こえる人は「言葉」や「情報」が勝手に耳の中に入ってくるから色々な事を知ってたりするけど、聴覚障害者は、それが出来ない。

また、本人のやる気と家族の支えと周囲の理解と学校側の熱意が揃わないと出来ない事だと思います。

手話を使うと、親戚や周りの人が変な目で見るかも知れない、、そんなことを考えていたらそれは大間違いだと思います。

 

何のための手話か?をもう一度よく考えて欲しいと思います。

 

長くなりましたが、少しでも聴覚障害者への理解が深まりますように、

聴覚障害者同士の誤解がなくなりますように、

また「情報保障」の必要性を改めて知って頂けたら嬉しいと思います。

 

このコラムを多くの方に読んで頂きたいので、シェア拡散して頂けると大変嬉しいです。

 

Reem Mohamed

 

Reem Mohamedさんのコラム7.jpg

(Special Thanks Reem Mohamedさん)

 

 

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2016-12-30 03:10:00

(2016.11.17)

某テレビ局に行ってきました!色々と見てきた事、要望してきた事をまとめました。どうぞ、お時間のある時にお読みください。 (Reem Mohamedさん)

 

 

昨日、某テレビ局に行ってきました! 本当は、管理人の佐藤さんと2人で行く予定でしたが、急遽都合が悪くなられて、私1人で参戦しました(笑)

 

突然、一人になったので内心では「えっ!どうする!!」と焦りましたが、言いたいことや聞きたいことが出来るチャンスだ!と言い聞かせて(笑)

 

当日、スタッフの方に初めてお会いしましたが、すごい笑顔の素敵な方ばかりで安心しました!

 

そのテレビ局員の中に、元々手話通訳士として働いておられた方がおられたため、その方がずっと手話通訳して下さいました。(本当に助かりました) テレビ局に行った目的は、佐藤さんが以前熊本地震でサイトを作られたことでニュースに取り上げられたことがきっかけです。

 

1)字幕制作について、何か意見を聞きたい

2)聞こえない人を職場の人にも知ってもらいたい

 

この2つをテレビ局の方から、話があり、引き受けて行ったのですが、字幕制作については想像と違っていてビックリしました。 狭い部屋に6人―8人がいて、そのうちの3人が、耳にイヤホンをつけて映像をみてタイピングして、2人は、字幕をテレビに合わせて調整して放送。

 

テレビで、話している人が長いときは、タイピングしている人の判断で文を短くするということです。

 

※例えば、「私は全ての番組に字幕が当たり前についている日が来ることを強く願っています」と話しても、字幕では「私は全ての番組に字幕が当たり前にある日を強く願っています」と言った風に短くなっていることがあります。理由は、場面が変わると字幕が合わなかったりするためです。 でも、生放送では、どうしてもそうはいかないので場面が変わっても字幕が続くもよう。

 

よく顔(画面の真ん中あたりとか)に、字幕が入っているのは、どうしてですか?と質問しました。

 

テロップがある場合、どうしても、重ならないようにしたいので、字幕が上にいってしまう。 録画の場合は、なるべく、上にいかないように調整はしているが、生放送だとタイピングしながら調整は難しい。 タイピングが追いつかなくなるため。ということでした。

 

見やすいように字幕をつけるには、画面を小さくしてその下につけるのが好ましいけど、ずっと画面を小さくするのは、、、。 テレビ局の方でも、非常に頭を悩される問題だということが理解出来ました。

 

災害などの緊急時には、この3人がもし家にいた場合はどうなるか?と質問をしたら、外部の会社にお願いして打ち込んでもらうということでした。

普段は大きなニュースがあれば真夜中でも待機するということで、最近だとアメリカの総選挙の時だそうです。

 

私は、タイピングをする人はもっと沢山いると思っていたけど、この3人で一生懸命私達(ろう者)のために字幕を打って下さっているのか、、、と思うと感激しました。 お仕事中でしたので、担当の方の気持ちとか聞けなかったのは残念ですが、非常に早いタイピングだったので、腱鞘炎にならないといいなと心の中でそう思いました。

 

次に、「聞こえない人とはどういうこと?」をテーマに多くの方と交流会をしました。

 

私は、ろう者がテレビをみるにあたって感じていること、思っていることを色々とお話させて頂きました。 ろう者の中には、文字が読めない(文盲の人)もいて、手話でなければ意味が分からない人もいる、ということを伝えたら、多くの方が驚いておられました。

 

だから、どうしても緊急時には字幕だけでは無くて手話通訳も欲しいのです。

 

手話は「福祉」ではなくて「言語」です、と強く訴えました。

 

最初からこういう事態に備えて、手話通訳の方を採用すれば、緊急時にはその方が手話通訳をすればいちいち手間がかからないというような事も話しました。 また、災害時で避難場所などで多くのろう者が錯誤する情報取得の遅れによって、1-2週間ぐらい食料や水がもらえることを知らず、あとでやっと知ったというケースが多かったということも話しました。

 

そこで、字幕だけではなくて、分かりやすい絵をテレビで映し出して欲しいと要望しました。 絵だと、聞こえる人も聞こえない人も一瞬で情報が掴めると思うから、それも合わせてニュースで流して欲しいとお願いしました。

 

CMについても、多くのろう者がリアルタイムに何を伝えたがっているのかを知りたい!ということを伝えました。 ウェブとかで後で字幕をつけて載せているけれど、そうではなくその場で他の人に尋ねなくても自分で理解したい!と伝えました。

 

みなさん、あ~~!!そうか!!と。(まさかCMの話題がくるとは思いもよらなかったもようです。) CMは、どうやらスポンサーさんとかその会社の人とも細かい打ち合わせをしないといけないもようですが、字幕が当たり前に入るようになったらいいですね!

 

最後に、(私の要望がこれで終わりということはないように)テレビを毎日チェックしますね!と話して終わりました!! 私も、字幕制作の裏とか放送の裏とかを知ることが出来て、色々と勉強になる1日でした。 この機会を作って下さった佐藤さん、テレビ局のみなさん本当にありがとうございました。

 

 

 (Special Thanks Reem Mohamedさん)

 

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2016-12-30 02:00:00

長野県にお住まいの綿貫彩さんのFacebookの2016/3/2付「小学校~中学校時代のこと。」というご自身の体験談が、私自身も勉強になりましたし、多くの方に読んで欲しいと思いました。

 

転載の許可をいただきましたので、紹介させていただきます。

  

綿貫彩さんのFacebookより.jpg

  

小学校~中学時代のこと。

 

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親や先生は、私の聞こえに対して「会話が出来るなら大丈夫」「家では全く困っていません」と話していたそうだ。学校生活においても「聞こえているから、特別な配慮は必要ない」としていた。

 

小学校・中学校で、私に与えられていた『サポート』は下記の通り。

 


■一番前の席に座る

■聞こえなかった言葉があったら、先生に訊き返す

■音読や教科書を読んだりしているときは、隣の席の子が教科書を指で指す

■発言・意見を言う時はFM補聴器付属のマイクを持つ(中学~)

 

しかし、先生や親の認識とは裏腹に、学校生活においてこのようにいくつかのサポートが付いていたにも関わらず、実際には学校生活についてで書いたように、私は学校生活のなかでたくさんの壁にぶつかっていた。

 

なぜ、このようなことが起こるのか

 

何度か書いたが、私は自分の聞こえを理解していなかった。

 

周囲の大人から「困ったことはある?」「きこえないことはない?」と訊かれても、「音が聞こえる」=「聞こえている」と思っていた私は、「大丈夫」「困っていない」としか言いようがなかった。それを聞いて先生も親も、こちらの言う事は理解できているし、本人が「大丈夫」というのならその通りなのだろう―と思っていたようだ。

 

「音は聞こえているのに言葉を理解することができない」ということを、小学生中学生だった私は、どう説明したらいいのかわからなかったのだ。

 

それに関してはエピソードがある。

 

教室での授業は読書や落書きで自分の世界に入り浸り、体育では自分勝手な行動と取られても仕方ないことをして注意ばかり受けている私に「なぜこんなことをするのか」と訊いてきた先生がいた。

 

「授業が聞こえないから」と答えると、「先生の言っていることはわかるか?」と訊く。質問の意図がつかめない、不思議な気分で「わかります」と言うと「聞こえてるじゃないか!それはね、もっと頑張って聞いてやっていかないと」と言われたことがあった。

 

母に「きこえなくてみんなと同時に○○が出来なかったんだ」と言うと「みんなは聞こえてるのに、あなただけ聞こえないのはおかしいよね。努力がたりないね」と言われたこともある。

私はそれらの言葉に対し、納得するしかなかった。

 

「自分の努力が足りないんだ」

 

「こんなに頑張っても、理解が出来ない自分はダメな人間なんだ」

 

失敗を重ねていくたびに、自己肯定感が失われていった。

 

中軽度難聴児を地域の学校に通わせるにあたり、同様のケースはよく耳にする。周囲の大人も、聴覚障害児本人も「聞こえている」と思っているのだ。しかし、実際には「聞こえていない」。その様子は、集団生活に溶け込めない・授業に対する理解力が上がらない・忘れ物をよくするなどという、目に見える形で顕著に表れる。

 

このことで、誰が一番困るのか。

 

―他の誰でもない聴覚障害児本人である。にもかかわらず、学校生活における失敗・学力低下は「本人の努力が足りない」とみられ、大人も本人も「本人が・僕が頑張るしかないよね」という結論にたどりついてしまう。

 

私の経験したのは、まさにそういうことだったのではないかと、大人になって思う。

 

友人関係については、一対一ならまだましも、複数人であつまって遊ぶという場面では、とにかくコミュニケーションが難しかった。

 

とくに、小学校・中学校では全く聞こえない左側、あるいは背後から声をかけたが反応しなかった私に対し「あやちゃんが無視する」と先生に話し、私はそれについて先生から注意を受けるということもあった。私が遊びに入ろうとすると「やっぱりやめた」と解散してしまうことが何度もあった。

 

先ほど書いたように他の子とはズレた行動をすることが多かったので、「あいつはちょっと変わった子」として見られていたと思う。

 

先に私に与えられた「サポート」を書きだしたが、それらは主に教室内のみで行われており、体育・音楽・社会見学・校長講話・芸術鑑賞・児童生徒総会・委員会の場では行われなかった。当然その場で話されている内容・セリフなど、全く解るはずもない。

 

そういった事もあり、聞こえる子であれば学校生活を他の児童生徒と同じように経験し、感情を共有していくはずが、わたしはますます遠ざかっていってしまった。

 

このレポートを書くにあたって、依頼してくださった支援者の方に頂いた質問の中に「周囲の人に『私はきこえない』と言えなかったのはなぜか?」というものがあった。

 

「言えなかった」のではない。

 

私は小学校時代、幾度となく先生や母親に対し「きこえなかった」「きこえない」「わからない」と言っていた。

周りの大人や同級生は信じてくれなかった。

 

本当に聞こえていないという事に気づいてくれなかった。

 

「キミは他の子よりもたくさん努力して、ようやく人と同じスタートラインに立つことができる」と、先生から事のあるごとに言われていた。

 

私は、「わたしは耳がきこえない」と話す事を許されない環境に置かれていたのかもしれない。

 

■自分で工夫したこと

 

「もう一度繰り返してください」

 

授業中や学級活動中、聞き取れなかった部分があったら先生、またはクラスメイトに対し「もう一度言ってください」と言って、繰り返し話してもらっていた。その都度、授業や学級活動の「時間」が止まり、教室は私と話者だけの世界に包まれた。不思議なことで、その時は「書いてくださいと言う」という考えがなかった。

 

わかるまで、何度も何度も繰り返し話者に訊いた。

 

クラスメイトの発言や委員会の連絡の時は、「もう一度言ってください」「もう一度言ってください」と、クラスメイトの話者の子を立たせたまま繰り返し訊いていたため、とうとうその子が泣き出してしまったという事があった。「もう止めなさい」と先生に止められて、結局話は解らずじまいの時もあった。

 

私も「自分が情報を得る大切な手段」として「もう一度言ってください」と言っていたし、周りの大人からもそういう風に「解るまで訊きなさい」と言われていたので、泣かれた時と先生に止められた時は腑に落ちなかったのを覚えている。

 

「もう一度言ってください」と何度も何度も言っても、話している内容が全く理解できない時はイライラしたし、とても疲れた。先生には言い続けていたが、児童生徒に対してはわからなくても言わないようにする方がいいのだろう、と学習した。

 

板書をただノートに写す

 

黒板に書かれていた文字をノートに書き写していた。(国語・社会) 板書を写すのみで、勉強を理解できていたのかというと、そんなことはなかった。板書をノートに書いている=勉強しているというイメージでやっていた。 先生に授業中あてられることが無いように、下を向いてノートに鉛筆を走らせる振りをしていた。

みんながどんな雰囲気なのか、知ることも出来なかった。

 

教科書を読む順番

 

国語を中心に、一人ひとりが音読や教科書に書いてある内容を立って読むときは、先生が「出席番号順」「座席の順番」「一段落ずつ」「○ページまで」というのをとにかく集中して聞き取り、読む人の顔を確認し、顔をしっかりと見ると不審に思われるので、口の形・肩が上下するのを見て、他の子の読み始め・読み終わりを確認しながら、自分が読む番を待っていた。

 

「授業なんかもういいわ」

 

話の内容も勉強の内容も理解できない授業は、もう自分には関係ないとしてその時間は漢字検定の勉強をしたり、英単語を暗記、または社会の問題集を暗記したりしていた。(主に社会・実験の無いときに限り理科) 中学3年生のとき、これではいけないと気が付き授業が終わった後に教科の先生のところへ行き質問するように心がけた。

ただ、質問しに職員室の先生のところに行ったのは良いが、まず一番に授業中どんなことをしたのかということから訊かないといけないほど、自分はどこが理解できていなかったのかもわからなかった。そのため思うように勉強が進まなかった。(数学・理科)

 

音楽※合唱・合奏

 

口を適当にパクパクさせて歌っている振り・楽器を演奏している振り(太鼓だったらバチを太鼓の音が出ないように上下に振る・リコーダーは吹かないで指で穴を適当にふさいだり) 近くの同級生の背中の上がり下がりをヒントに太鼓をたたく真似をしたり、見ないふりをしながら視界に入る手の動きをヒントにリコーダーの指を操ったりしていた。とにかく、みんなと同じように見える、ということを徹底して心がけていた。

 

体育※ルールのあるスポーツ

 

さまざまなスポーツのルールが書いてある体育の教科書を、あらかじめ何度も何度も読んだ。その競技専門の用語があり理解できなかったので、実際は意味があまり無かったが、とにかく教科書を読んでルール・反則を覚えようとしていた。

 

いくつかあげたが、大人になった今見返すと全くもって意味のない工夫だったな、と思う。

 

「間違いを犯さないように」「怒られないように」「へんな目で見られることのないように」と、自分の聞こえなさを見た目でカモフラージュしよう、それだけを考えてやっていた。

 

もっとしっかりと、先生や周りの同級生に質問して、きちんと授業の内容や学級活動について確認・理解していく必要があった。

しかし、いざ質問したところで「なぜいまさら」「なぜこんなこと解らないのか」と思われ軽蔑され馬鹿にされると思いこんでいたため、出来なかった。

 

「きこえない」と言えなかった分、「きこえている振り」をしなければいけないと思っていた。その上での「工夫」であった。

 

私がやってきた工夫。これは反面教師として、絶対やってはいけない悪い例として捉えていただきたい。

 

学校生活を普通の子どもとしてカモフラージュ出来るが、実際学力も上がったためしがないし、授業を聞いて理解する権利を放棄してまで暗記した英単語も問題集も大人になった今では全く頭に入っていない。

 

それなのに、この「工夫」の中には努力がたくさん見えてくる。

私は親からも先生からも「みんなと同じになるよう努力しろ」と言われていたが、こんな形の努力は、はたして将来のためになるだろうか。

 

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綿貫彩さん、貴重なお話をありがとうございました。

 

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